アメリカ極貧生活で培った”何とかする”力! ジャズクラリネット奏者・壱岐薫平さんの海外体験記
全額奨学金を獲得しバークリー音楽大学に留学した経験を持つMuseMate編集長、壱岐薫平の音楽家としての側面を深掘り——MuseMateマガジン「音楽家の海外体験記」シリーズでは、留学や演奏旅行など海外での音楽経験を持つ音楽家へのインタビューを特集している。次月にいくつかの取材記事の公開予定があるが、今回はそれに先立って当サイトの編集長である「いきくん」こと壱岐薫平氏をインタビュー対象とし、留学経験を持つ一人の音楽家としての側面を掘り下げることにした。
吹奏楽少年でありながらジャズクラリネットの熱心なリスナーだった中学・高校時代
MuseMate編集部(以下、MM):今回お話を伺いますのは、クラリネット奏者の壱岐さんです。まずは簡単な自己紹介をお願いします。
壱岐:一応ジャズクラリネット奏者ということにしております、壱岐薫平(いきくんぺい)です。メインで演奏している楽器はクラリネットで、バークリー音楽大学というところで演奏(Performance)とジャズ作曲(Jazz Composition)を専攻していました。3年前くらいから趣味のYouTubeチャンネルをやっていて、今チャンネル登録者が2万2,000人くらいいます。最近では、MuseMateという音楽メディアの立ち上げに取り組んでいます。
MM:今までの音楽歴をお聞きしたいのですが、クラリネットはいつから始められたのでしょうか?
壱岐:クラリネットを始めたのは、中学1年生で吹奏楽部に入部してからです。厳密には、その直前の小学校を卒業した春休みから始めていて、母が学生時代に使っていた楽器が押し入れに眠っていたんですよね。それを引っ張り出してきて、遊んでいたのが最初です。
MM:吹奏楽部から始めて現在はジャズをやっておられますが、ジャズとの出会いを教えてください。
壱岐:中学・高校と吹奏楽少年で、特に高校は愛工大名電という吹奏楽に力を入れている学校だったのですが、実はそもそもクラリネットに興味を持ったきっかけは、テレビで北村英治さんというジャズクラリネットのレジェンドの方の演奏をみたことで、高校時代から部活の合間にこっそり大阪まで通って北村さんのジャズライブを毎月のように聴いていました。異端児というか、まあ悪い部員だったんです。
実際に演奏し始めるのは高校3年生くらいの時で、部活帰りにジャムセッションに顔を出したり(当時の部活の関係者がこの記事を見ていないことを祈ります)、部活でスイスへ演奏旅行に行ったのですが、その時音楽祭のキャストバーで仲間と演奏したりしていました。
授業料免除! アルバイト代を2年半貯め続けていたことで留学が実現
MM:その後、アメリカへの留学に至った経緯を教えてください。
壱岐:高校卒業後、今は潰れてしまったのですが、音楽の専門学校に2年間通いました。バークリーと提携している学校だったので、20歳のとき記念受験のつもりで入試のオーディションを受けたところ合格しました。しかもスカラーシップで授業料を全額免除してもらえることになって、せっかくの機会なので海を渡ることにしました。
MM:とはいえアメリカで暮らすとなると色々お金がかかると思います。その辺りはどうしていたのでしょうか?
壱岐:専門学生のころから、ありがたいことに毎月なんだかんだ演奏の仕事をもらっていたので、普段使うお金はそれで賄っていました。それとは別に2年半コンビニの早朝バイトを続けていて、バイト代が振り込まれる口座にはその間一度も手をつけていなかったので、そのお金を渡航費とはじめのうちの生活費に充てました。授業料免除と、溜まっていたバイト代のどちらかでも無ければ留学は実現しなかったと思います。そもそも、専門学校に行ったのは学費の問題で音大に通うのが難しかったからで、もともと苦学生みたいなもんなんですよ。
MM:早朝にアルバイトをして夜に演奏活動だなんて、すごいですね。アメリカに渡ってからは、どのような生活をしていたのでしょうか?
壱岐:いや、でも2年半のバイト代なんてあっという間に消えてしまうので、向こうではひたすら極貧生活をしていました。
MM:極貧生活ですか……詳しくお聞きしてもよろしいですか?
朝食代は月々100円! 究極の極貧生活
壱岐:実は住む家も決めずに、行き当たりばったりで飛行機のチケットだけを取って現地に辿り着きまして。というか初めての渡米で英語もわからないので、行きの乗り継ぎに失敗して、テキサスのダラス・フォートワース国際空港で単身投げ出されてしまったのですが、なんとか身振り手振りで交渉して、ボストン行きの代わりのチケットを発行してもらいました。
MM:ええ!? 本当に行き当たりばったりですね。それでボストンには無事辿り着けたのですか?
壱岐:はい。実際は国際線のトランジットの場合、乗り遅れても比較的柔軟に対応してくれるものなんですよ。ただ当時はまったく英語が喋れないし、飛行機の常識もわかっていなかったので、詰んだと思いましたね。携帯もつながらないし。「STUDENT」と「BOSTON」の2単語を連呼して、乗り遅れた便のチケットを見せて困っているアピールをしたらなんとかなりました。
MM:なるほど。それで極貧生活の話ですが……。
壱岐:ああ、そうでした。ボストンに着いて数日は日本人の先輩の家にお世話になっていたのですが、新入生のオリエンテーションでヴィブラフォン奏者の窪田想士さんに出会いました。失礼ながら自分と同じ苦学生の匂いを感じ取り話を聞いたところ、できるだけ家賃を抑えるために郊外のオールストンという街で、3人でルームシェアをしているとのことで、4人目がいたら更に家賃が下がりますよと交渉して、一緒に住まわせてもらうことになりました。月400ドルとかなので、他じゃまずあり得ないくらいの破格でしたね。
オールストンの仲間は現地では珍しく経済感覚が合う人たちで、ディスカウントストアで中古の食器や布をみんなで集めてきて、ボンビーガールで取材されてもまったく恥ずかしくないような立派な貧乏暮らしをしていました。中でも僕が最低ランクで、他の3人は格安のエアーベッドの模造品のようなもので寝ていたのですが、僕は中古で仕入れた布を何重かに折って和風の寝床を作っていました。
MM:わ〜、そんなに苦しい生活だったんですね。となると、食事はもっと大変だったんじゃないですか?
壱岐:そうですね。スターマーケットというスーパーで0.99ドル(100円くらい)の約30枚切りの食パンが売られているんですよ。1枚あたり数ミリしかないんですけど。それを買ってきて冷凍庫に入れて、毎朝1枚ずつ解凍して食べていました。これで朝食が月々100円で済むという大発明です。
昼と夜は卵料理でその日の気分に応じて目玉焼きや炒り卵や卵焼きを作っていました。月末に近づくにつれて、卵よりも水の割合が増えていきましたけどね(笑)ただ現地で知り合いができて演奏のチップがもらえるようになると、ハンバーガーやコーヒー、ハーゲンダッツ(アメリカだと安いんですよ!)といった高級品を買える日もでてきました。
英語がわからなくても音を出せば意思疎通できる。即興演奏の魅力
MM:なるほど。色々やりくりしていたのですね。ところで学校生活はどんな感じだったのでしょうか?
壱岐:楽しかったですよ。最初は英語がまったくわからなかったのですが、ジャズという音楽を専攻していたおかげで音を出せば意思疎通できる授業が多くて。先生にもよくしてもらったし、色々なレコーディングに呼んでもらえる機会が多くて充実していました。
あと僕の極貧生活は当時周りにも知れ渡っていたので、本当に色々助けてもらえて。日本人の先輩からピザを奢ってもらったり、現地の友達にもギグ終わりで家に呼んでもらったり、ESL(英語の授業)の先生にインスタントラーメンをプレゼントしてもらったり、人の温かみに触れる日々でした。
MM:みなさん、とても親切だったのですね。音楽面での変化はありましたか?
壱岐:日本にいたときは、好きなジャンルの再現ばかりで無意識のうちにクラリネットでこのジャンルはできないという壁を作っていたのですが、現地のレッスンやアンサンブルを経験して、ありきたりな答えですが視野が圧倒的に広がりました。周りからも「クラリネット? じゃあこれはできないね」とか、「クラリネットならこれをやるべき!」みたいなことはほとんど言われなくて、本当にいろんなジャンルを経験しました。中でもフリーインプロの経験は大きかったです。
MM:なるほど。現地での思い出に残っている演奏はありますか?
壱岐:色々ありますが、リンカーン・センターでニューヨークフィルの一部のメンバーと日本の高校生との共演企画みたいなものがありまして、そのイベントのオープニングアクトでジャズの演奏をしたのですが、これはシンプルに思い出に残っていますね。リンカーン・センターで吹いてるぞ、みたいな。まあ、ホールじゃなくてアトリウムなんですけど(笑)
あと、吹奏楽のサークルみたいなものに助っ人で参加していたのですが、そこで演奏する曲の多くが日本製の楽譜だったことに驚きました。普通にニュー・サウンズ・イン・ブラスとかやるんですよ。もちろんスパークとかもやりましたけど。
MM:演奏以外にも、アメリカ生活で思い出に残っているエピソードがあればぜひ教えてください。
壱岐:そうですね、フィギュアスケートの世界選手権がちょうどボストンで開催されたときがありました。当時まだ英語が全然わからなくて、バッグを持ったまま会場に入れないというのを直前で知ったんです。困っていたら近くにいたアメリカ人のおっちゃんが、近所に知り合いの経営しているカフェがあるからと電話をかけてくれて、カバンを預かってくれることになって。万が一盗られてもいいやという覚悟で預けたのですが、普通に預かってくれてめちゃくちゃ良い人でした。疑って申し訳なかった……。
他にもボストン美術館にタダで入れたり、リチャード・ストルツマンさんのレコーディングのお手伝いをさせてもらったり、日本ではなかなかできない経験を色々しましたね。
YouTubeやMuseMate、オンラインでメディアを作り始めたのはなぜ?
MM:アメリカ滞在中にYouTubeを始められていますよね?何かきっかけとかあったのですか?
壱岐:長い話になるので掻い摘んで喋ると、僕にもわかりやすく功名心に突き動かされた20代前半というのがあったのですが、25歳も過ぎると色々と人生観や音楽観にも変化があって。卒業式が2019年の5月だったのですが、その前後は現地で気ままに演奏して、それなりにお金も稼げるようになって、のんびり一人暮らしをしていた時期なんですよ。自分の演奏活動の理想としては、自分がやりたいと思える音楽をじっくり気ままに続けていくというもので、割と当時の生活が気に入っていたのですが、とはいえ日本向けに多少は発信力も持っておかないとなぁという気持ちもあって。それで半ば様子見的に、半匿名で趣味の音楽理論について語るチャンネルを始めたのがきっかけです。
MM:なるほど、いざやってみたら思ったよりチャンネルが伸びて、YouTubeに力を入れるようになったという経緯でしょうか?
壱岐:いや、YouTubeに関してはそういうつもりでもなくて、本当はだらだらと現地に居続けて演奏活動をしながら、YouTubeの方は3年くらいを目処に1万人規模のチャンネルにするのがゴールかな、と思っていたんです。ところが始めてから1年足らずのタイミングでコロナ禍がやってきて、帰国を余儀なくされました。その時点で登録者が5,000人くらいいて、コロナ禍で音楽家が置かれた状況にも色々と思うところがあるなかで、なし崩し的にオンラインでの活動が主軸になっていった感じです。
MM:そこからなんだかんだでMuseMateを作るに至ると。
壱岐:そうですね。文化ってなんだろうみたいなことを色々と考えさせられて、プラットフォームを作るというところに行き着くわけですが、MuseMateのインタビューで本人がMuseMateについて語っても仕方ないので(笑)
個人的な話で言うと、一人のプレーヤーとしてこのまま進んで行った先にどんな40代、50代があるのかと考えたとき、どのルートを辿っても何となく未来の姿がイメージできてしまって。どうせなら未来がどうなるかわからない方が面白いじゃないですか。それで、ゲームごと作っちゃうみたいな挑戦もありかなと思ったんです。まあ、おかげでお金がどんどん無くなってまた極貧生活ですが。
これから留学を考えている人にアドバイス
MM:最後にこれから留学したい人や、海外で音楽活動をしたいという人に向けた話をいくつかお聞きできればと思います。まず、バークリー音楽大学を受験する際、どのような試験内容だったのか教えてもらえますか?
壱岐:最初に、自由曲の演奏をしました。ジャンルは何でも良かったと思います。僕はジャズスタンダードをやったのですが、途中から試験官の先生がベースで参加してきて、試験というより普通のジャムセッションのようになりました。それから、音楽の基礎的な能力をみるための課題がいくつか出されます。初見演奏、試験官の先生が弾いたものを自分の楽器でそのまま吹き返すという課題、ブルースのインプロヴィゼーションを数コーラス。こちらも試験官の先生が伴奏をしてくれたので、あまり緊張感はなく楽しく演奏できました。
MM:これからバークリーを受験したいという人もいるかもしれません。そういう方にアドバイスはありますか?
壱岐:地力が問われる内容なので、試験に向けてガチガチに自由曲を準備して行ってもその1曲しかできなというのは見抜かれてしまいます。僕の場合は割と直前まで何の曲をやるか決めず、普段よくやるスタンダードの中からこれかなと思う曲を演奏しました。アドバイスが言えるとしたら、現場で演奏経験がある人からしたら全体的にそんなに難易度の高い内容ではないので、日頃から素の力で演奏する習慣をつけておくことだと思います。
MM:なるほど。ちなみに壱岐さんは何の曲を演奏したのですか?
壱岐:『Stella by Starlight』です。あ、あと面接もあります。
MM:面接は英語なんですよね?英語は喋れたのですか?
壱岐:いや、まったく喋れませんでした。面接官が何を言っているのかもちんぷんかんぷんでしたね(笑)
MM:え、ではどうやって面接を突破したのですか?
壱岐:えーと、これはあまり言わない方が良いかもしれないんですけど、実は裏技を使いました。バークリーの公式サイトに面接の例題が載っていることに試験当日の電車の中で気づいて、その質問に対する回答をGoogle翻訳を駆使して急いで用意したんです。で、実際の面接では何を聞かれているのかよくわからなかったんですが、お構いなしに先ほど用意した回答からランダムでつらつらと述べるという。
当然噛み合ってなかったと思うんですけど、入試の面接で聞くことなので方向性はある程度同じだろうし、向こうも何年も入試をやっているはずで日本人が英語をまったくできないことには慣れていると思うので。聞き取れてはいないけど、まあちゃんと自分の意見は伝えようとしているなというのを汲み取ってもらえるかなという賭けに出ました。結果的にはそれが功を奏した感じですね。
MM:すごい博打ですね。でも現地では話せないと大変だったんじゃないですか?
壱岐:めちゃくちゃ大変でした。初見のRPGをやっている感覚ですね。言葉がわからないので条件から推理して、次はこの建物に入るべきかなとか、最初の半年は全部そんな感じで乗り切りました。韓国人、中国人、アメリカ人、ブラジル人とのバンドに入れてもらって、ホームパーティとかも行くようになって、その辺からですね、ある程度会話できるようになったのは。
MM:そうなんですね。これから音楽家を志す人は、どんどん海外に行くべきだと思いますか?
壱岐:うーん、そこは人それぞれですね。もちろん行かないとわからないことはたくさんあります。ただ海外の常識がわからないからといって、日本で活動する上でそこまで困ることもないと思うので。人生経験として興味のある人はどんどん挑戦すれば良いと思います。大事なのは何とかなる、ならなくても何とかするというマインドですね。先ほど極貧生活の話をしましたけど、実はその後1年近くホームレスをやっていた時期もありまして、想像力の壁を突破すると意外とその向こう側でも現実に人は生きてたりするので。まあ若くて体力があったのでできたという部分も大きいので、誰もが無理のきく体ではないと思うんですけど、もしお金の面とか、常識や世間体の面で二の足を踏んでいる人がいるとしたら、そこはもう思い切ってこちら側に来てしまって良いと思います。
日本の音大って学年で1番の一人にしかまともに奨学金が出ないところが多いと思うんですけど、海外だとそれなりに能力があれば、全額とは言わずとも奨学金がもらえる可能性が日本より高いので、ふたを開けてみれば日本で音大に通うのと同じくらいの金額で済んだりします。それでいろんな国の人と音楽をする機会が得られるので、一つの選択肢としてはありなんじゃないかな。
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そんな壱岐薫平が暫定編集長を務める新しい音楽メディア『MuseMate』の行く末をぜひあたたかく見守って欲しい。
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